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社長の自己紹介

2021-10-01

 

 

 

目次

幼少期

 

どうも、Curio auto Club代表の大内です。

 

私、大内は昭和48年(1973年)に京都府宇治市に3兄弟の末っ子として生まれました。

 

 宇治市というと、宇治茶・平等院・源氏物語?が私の知りうる特産物、観光スポットとして挙げられますが、

私の通っていた創立100年以上の歴史ある、宇治市立大久保小学校では給湯室から焙じ番茶が蛇口をひねるといつでも飲めました。

(結構他府県民の方にはびっくりされる!!)

 

宇治茶に関してはそれほど関心がないのが正直な気持ちです。

 

 

 

それよりは毎年開催される宇治縣祭り、金毘羅祭りで見かける夜店のグリーンティーが大変好きでした。

我自宅にも常にグリーンティーがストックされていたのには親の過保護ぶりがうかがえます(笑)

 

 

ちなみに平等院は小学校の写生大会で一回訪れた程度、

宇治市源氏物語ミュージアムにいたっては恥ずかしながら一回も行ったことはないです…が、

ホームページを見るとなかなかの蔵書が取り揃えられているらしいので、

機会があれば是非行ってみたい観光スポットではありますね。

 

 

平等院 鳳凰堂

平等院鳳凰堂

 

 

宇治市源氏物語ミュージアム

宇治源氏物語ミュージアム

 

 

 前述のとおり、3兄弟の末っ子というのもあって長男・長女からは溺愛されていたのを

40数年たった今でもビミョーに思い出されます。

 

今から考えると実はいじられキャラだったのかも…幼少期は両親が共働きというのもあって、

母の愛車(通称ママチャリ)で10分くらいの距離にある『ひいらぎ保育園』

(今はひいらぎこども園に改名)に託児されていました。

 

母親のお迎えが思いのほか遅くて、お迎えの遅い子供たちを預かる、

別名(居残り保育)で心細い気持ちで母親を『今か今か』と待っていたのを覚えています。

 

今は延長保育と言うのですね。

 

幼少期はまぁこんな感じです。

 

ウルトラマン兄弟にバビル2世(今でも主題歌を歌えます( ´∀` ))をこよなく愛し、両親と兄弟の愛情を受け日々を過ごしました。

 

 

 

小学生時代

 

前述にもあるように、創立100年以上の歴史ある、

宇治市立大久保小学校に通っているときが今から考えると人生の華*ピークだったのかもしれません。

 

成績優秀・運動神経抜群・生徒会役員と女子生徒からモテる要素をフルスペックし、

わんぱくでもいい、たくましく育った少年時代だったと思う。

 

この時期に、今後の少年時代に多大な影響を与える、少年野球チーム(大開サンクラブJr)に入団しました。

 

私はもともと体が弱く、ぜん息を患っていたので、心配性の母親が『何かスポーツをやらせねば』と思ったらしく、

まず近くの天理教横にある空手道場の見学に連れて行かれました。

 

空手着と道場の独特なにおい、何やら意味不明の気合に私たちは翻弄され、

その日の内に空手道場の入門手続きを母親がしたのを覚えています。

 

…がワクワク入門前日、近くの公園で友人と遊んでいた時に不幸にもブランコから落下し、

左腕を複雑骨折してしまい、空手道はその時に閉ざされれてしまいました。

今考えると複雑骨折という痛い思いはしましたが、

この後に紹介する『少年野球チームとの出会い』につながるのは言うまでもない。

 

※ちなみに骨折の治療を受けた、近鉄伊勢田駅近くの『北尾外科』は今はなくなっていて、『かわもと整形外科』になっていました。

 

 

大開サンクラブJrは名前の通り、大開小学校を中心とした生徒で結成された少年野球団である。

 

私はというと大開小学校ではなく、となりの『大久保小学校』の在校生でした。

 

何故、違う学区の少年野球団に入部を?と思いますが、当時は大久保小学校に野球チームが無かったのでという理由でサンクラブJrに入部したのでした。

 

数年後には大久保小学校にも『広野ジュニア』という野球チームが再結成されていましたが…

 

小学生時代の中でサンクラブJrを通じて数々の経験をさせてもらいました。

 

その中でも特に印象が残っていることは、とてつもない野球センスを持ち合せた人物に出会えた事で『こいつには勝たれへんわ』と人生で初めて屈辱を味わった事です。

 

黒塚君の存在が、人生で最初に屈辱感を味わいまた、私自身を野球への興味をより一層引き上げてくれた人物だといっても過言ではないのでした。

 

 当時、私は小学校2年生で背丈も校内の整列の時は、前から3番目位に並んでいるチビ助でした。現在はどうか知りませんが、当時は背の順で校内の行事ごとは整列していました。

 

黒塚くんは大変小柄で、身長も私よりも少し低く140cmくらいだったかと思います。

 

その彼がいざショートの守備に入ると、守備範囲の広さはサード・

セカンドの打球まで取に行ける尋常じゃないほどの守備範囲で、

肩の強さは体系からは考えられないくらいの強肩で類まれな野球センスを発揮していました。

 

その姿からは決して140cmそこらの背丈の少年のプレイではなく、

大人顔負けのずば抜けた野球センスの持ち主でした。

 

はっきり言って、それまで遊び程度でしか野球をしていなかった私には衝撃が走り、

武者震いに近い感覚の震えを感じました。

 

『こんな奴が同学年でいるんや!しかも俺よりチビのくせに!』とライバル心と野球に対しての

探求心は彼に教えてもらったと実感しています。

 

私も、自分でいうのもなんですが、結構野球に関しては遊び程度とは思っていたにしろ、

かなり上手いと思い込んで己惚れていたとはおもいます。

 

黒塚君に出会い、彼の類まれな野球センスを目の当たりにしたときに、

自分には努力しても決して届かない領域で活躍している彼に、

人生で初めて悔しさと嫉妬・屈辱を与えられたことを今もまだ忘れることができません。

 

その後、黒塚くんはサンクラブJrを卒団するまでショートのレギュラーの座を当たり前のように射止め、

小学校卒業後も中学校でも地元の宇治市立広野中学校で野球部に入り当然レギュラーで活躍していたのを思い出されます。

 

彼はその後、高校時代は地元の公立城南高校のサッカー部に入ってキャプテンで活躍したと聞いています。

(城南高校は現在、養護学校に代わってるみたいです。)

 

まあ、彼の場合はどの運動部に所属しても活躍したことは間違いないでしょうに…

 

私は、少年野球チームに入団して、黒塚くんと出会ったことで、

自らの負けを認めるということは、自分の力量・能力を知る良い機会だったと思いました。

 

その悔しさやもどかしさを小学生の時期に経験できたことは、

私自身のその後の成長欲求を育むことにも繋がったのではないでしょうか。感謝‼

 

今考えると、小学生時代の友達はサンクラブJrでの野球を通じて知り合った友人の記憶しかほぼ残っていません。

 

それくらい、私には貴重な時間だったのではないでしょうか。

 

大久保小学校の同級生の名前は思い出せないのですが、

サンクラブJrで共にプレーした同級生の名前は40年近く経過した今でもおぼえています。

 

 

ここで、当時のサンクラブJrメンバー紹介をします。

 

実家も近くで、オシャレと流行りには超絶敏感な山本〇彦。(今はどーしてんねんやろ?)

 

母親の遺伝子を素直に受け継ぎ、誰が見ても一目瞭然で親子だとわかる、ギョロ目で鈍足の三上くん。(スイマセン!m(__)m)

 

父親が日活の俳優さん顔負けの男前やったことを覚えてます、中神くん。(当人はピグモンみたいで当時は可愛かったですよ。)

 

誰もがすれ違いざまに振り返るほどの超絶美人のお姉さんがいて、

彼の家に遊びに行くのを口実に、実はお姉さんを見に家にいっていたのを思い出します、

島上くん。(お姉さんは今もお元気にされてるのでしょうか?)

 

内気でシャイな末っ子ボーイ、背番号5の不動のサード小川くん。愛称みっちゃん!

 

類まれな運動神経の持ち主、前述にも出てきた黒塚くん。愛称クッカ(あなたは凄かった!)

 

お母さんがケーキ屋さんで、美人ママの遺伝子を全く受け継がなかった吉川くん。(あれほど似てないのは不思議だった)

 

キャプテンで4番、チームのムードメーカ的な存在で小学生時代は一番よく遊んだ。

体育館みたいなヘンテコリンな家が未だに印象に残っている、父親がジョンレノン似の谷山くん。

(もうあの体育館はなくなっていましたね( ノД`)シクシク…)

 

ちび助三人衆の一人小嶋くん。(当時はちっちゃかったねw)

 

実家も近く、親子そろって体育会系の少しヤンチャな栗田吉〇。(消防隊やったっけ?元気かな?)

 

実家も近く、いつもニヒルな峰田くん。(学会頑張ってるか?)

 

実家も近く、野球以外でもスケボーでもよく遊んだ、元巨人のピッチャー水野似の小中〇。(元気してる?)

 

まじめで、いつも勤勉?な、健康のために野球をやってたかと思われる、細矢くん。(野球より囲碁の方が似合ってましたよ。スイマセンm(__)m)

 

あまり肉声を聞いたことがなく、おとなしい感じの岸田くん。(月に一度は声を聞いたかなくらいの記憶しか…)

 

新田駅近くの彼の家によく遊びに行ってたのを思い出します。お姉さんがミニクーパーを乗っていた事はうろ覚えています。足立くん。

 

実家も近く、噂では今は著名な陶芸家になってるらしい東くん。(ホンマか!想像もできんわ!)

 

芸能人バリの男前で、手足の長いハーフ顔の堂本くん。(ホンマはハーフとちゃうん!)

 

走・攻・守の三拍子揃った、三振かホームランの二択パワーヒッター藤永くん。(お母さんが美人さんでした。)

 

見かけより野球センスがなかった男前の川村くん。愛称かまっちょ!

 

ニヒルで子供ながらにしてゴルゴ13の雰囲気を漂わしていた藤岡くん。愛称ふるっつ!

 

黒塚君バリに運動神経が良くちび助三人衆の一人で、すばしっこいイメージがある阿戸くん。愛称トンキ!

 

以上21名の同級生メンバーとサンクラブJrは良い思い出として今もなお残っています。

 

 

おっと忘れてはイケません!!お世話になった監督陣も忘れてません。

 

当時、鬼の代表と呼ばれていた武藤代表。お元気ですか?

 

(当時は大変可愛がってもらいました、試合で負けた後のケツバットの痛みはわすれませんw)

 

七福神様のような表情で、にこやかな表情が思い出される、小谷内監督。お元気ですか?

 

変則的な投法で、打撃練習の時に時折カーブをおりまぜて投げてくる平野コーチ(小学生には打てません!反則です!)

 

以上、大開サンクラブJr時代のよき思い出でした。

 

 

日中親善少年野球(台湾遠征)

 

サンクラブJrチームメイト一同

 

 

 

最近、知った事なのですが大久保小学校の卒業生にはお笑いコンビ「麒麟」の川島明、

 

「ブラックマヨネーズ」の小杉竜一が小学2年生くらいまで在籍してたらしいです。

 

川島は5学年下らしくて接点はまったくなく、小杉に至ってはなんとっ‼

 

同級生だったのだと年末の同級生が集まる飲み会で知らされました。

 

彼は小学校途中で転校したらしいのですが…

 

私自身、お笑い芸人も芸能人も全く興味がありませんので。

 

彼らの名前はもとより、出身校なんか当然知ろうはずもありません。

 

同級生の飲み会の中で、ちょうどその話題になりました。

 

同級生の話によるとクラスは違えど『おまえは小杉と結構遊んでたぞっ』

 

と言われてかすかに残っている記憶をたどってみると、確かに小杉という名前はかすかに憶えがありました。

 

 

確か、クラスは別だったけど共通の友人がいて、私と小杉、共通の友達の三人でよく

 

尖山付近で何かをして遊んだ記憶があります。

 

彼は当時、紫色や原色系のポロシャツを好んで着ていて、見た目も今ほど太ってなくて

 

結構オシャレな感じがする、かわいい顔立ちの子供だったと思います。

 

『あいつがブラマヨの小杉やったんやっ』と今思えば、なんとなくブラマヨ小杉に

 

小学生時代の彼の面影がかさなります。

 

 

今は芸能人として、お笑い芸人として立派に活躍している彼を、テレビを見ながら

 

いち視聴者として応援しています。

 

そして、もし会う機会があるなら是非聞きたいことが一つあります。

 

なぜ、いつも紫色(原色系)のポロシャツを着ていたのかということを…

 

いつか会える日を楽しみにしております。

 

その前に私の事を憶えているのかが気がかりですが…。。

 

 

 

 

 

 小学生の時は、男の子よりも女の子の方が成長が早いですよね。時代は変われども今もそうだと思います。

 

『成長』と一言で言っていますが、身体の成長や話す会話の内容、恋愛に関しても同じ小学生の男子

 

よりも、女子の方が当時も進んでいました。

 

 

初恋とまではいきませんが、私は小学生の3年生の時に担任になった新米の女性担任に想い?をよせていました。

 

この担任の先生(MM先生)は、大久保小学校に赴任されてこの時が初めてクラスを受け持ったと記憶しています。

 

当時に流行っていた、松田聖子ちゃん風カットの髪型をさりげなく取り入れ、クラスの男子からはもとより

 

男性教師陣からも人気がありました。

 

 

少し小柄なお顔も可愛らしかったので人気が出るのに時間はかからなかったと思います。

 

 『好きな女の子にはいたずらをする』というのは定説ですが、当時クラスの男子生徒は

 

ほぼ毎日誰かが、MM先生にいたずらを働いていました。

 

私も何とか気を引きたかったのでかなりの問題児ぶりを発揮していました。

 

 

時には、いたずらの度が過ぎてMM先生を泣かした事さえあった始末です。

 

それくらい、自分の事を気にしてもらいたくて、たとえそれが叱られても嬉しかったのです。

 

子供ながらにして、言葉では相手への思いは伝わらないと判断した結果だったのでしょう。

 

まあ、MM先生にはよく怒られました。

 

時には、母親を呼び出されて指導、説教をされた時もありました。

 

その度に、MM先生から気にかけて貰えてるうれしさを嚙み締めていましたww

 

ちょっと今思うと危ない奴ですねww

 

少なからず、クラスメイトの男子の中にも私と同じ対応でMM先生に接してた男子はいましたよ。

 

 

その、MM先生の人気ぶりを面白く思わないのが、クラスの女子です。

 

先ほども言いましたが、小学生3年生の女子は気持ちや身体も成長時期にあるので例え担任の先生であっても

 

女性間にある、独特の嫉妬心みたいなモノが女子たちにはあったのでしょう。

 

多分ですが、今考えるとMM先生は女生徒には逆に人気がなったのではないでしょうか。

 

このMM先生の人気を揺るぎないモノにした出来事がありました。

 

それは、夏季に行われる「プール」の授業での事です。

 

 

プールといえば、『水着』です。

 

私たちは定番の紺色の名前入りのスクール水着でプールの授業が始まるのを今か今かと

 

プールサイドに座り待機していました。

 

 

その時のことです…

 

 

まるで『スイセン(水仙)』の花がプールサイドに咲くかのように

 

黄色のワンピース水着を着衣してMM先生は堂々登場されました。

 

 

クラスの男性陣はあっけにとられ、誰もがMM先生に目がクギ付けになったのは言うまでもありません。

 

正直、MM先生が着衣していた水着の色(原色黄色)にびっくりしていました!!

 

 

自分たち(女子も含め)の紺色のスクール水着に対して、

 

水仙の花のような原色系のワンピース水着は刺激が強すぎました。

 

その水着姿のMM先生はその日を境に人気がさらに急上昇して、クラスの男子からは熱い眼差しと

 

ともに、何とも言えない感情が誰しも湧きたち、逆に女子からは冷たい視線、感情を送られたのでした。

 

 

小学校時代の同級生に会って思い出話になると、

 

必ずと言っていいほど、MM先生の水着の話題が出てきます。

 

かれこれ30年以上も前の事を、誰もが今だに話題にします。完全に脳裏に焼き付いています。

 

 

 

MM先生、お元気でしょうか?

 

あなたの着衣していた水着の影響で、私のラッキーカラーはその日から『黄色』と生涯決めています。

 

私が日々悪さしてあなたを困らせたのも、初めて抱いた恋心だったのだという事でご理解くださいませ。

 

また、いつかお会いでいる日を楽しみにしています。

 

その時は、『何故アノ水着で授業をしたのか』をぜひ聞いてみたいと思います。

 

 

 

 

水仙スイセン)は、早春に花を咲かせる春を告げる球根植物のひとつです。

白と黄色以外にピンクや緑、オレンジなど、色とりどりの花が咲きます。 

水仙スイセン)の園芸品種の数は数万品種もあり、とても種類が豊富です。

品種によって一本の茎から一本の花が咲く種もあれば、日本水仙のような房咲き種もあります。

 

 

 

 

中学生時代

 

野球漬けの小学生時代から一変、中学校に入学すると数学が得意科目で

 

クラスでは学級委員として、過ごした真面目な優等生でした。。

 

ってな訳には当然いかず、宇治市立広野中学校に入学した

 

その日から、野球部の入部を決めてました。

 

野球部の先輩の方々には少年野球チーム(大開サンクラブJr.)時代の先輩

 

も数多くいられました。

 

 

その先輩方の中で、1学年上の先輩、『松岡先輩』について語らせてもらいます。

 

松岡先輩→M先輩と今後は呼ばせてもらいます。

 

 

M先輩はサンクラブ時代からの先輩でもあり、小学生時は目立つキャラでは

 

なかったように思います。

 

 

そんな先輩ですが、中学校の部活でお会いした時M先輩は中学2年生で

 

 

ちょうど思春期のど真ん中だったのでしょう、

 

 

かなりデビュー(中学デビュー)されて、かなり恐い先輩になっておられました。

 

 

話は変わりますが、当時はDCブランド(1980年代に日本国内で広く

社会的なブームとなった、日本のアパレルメーカーによる

高級ファッションブランドの総称)が大流行しており、

 

  • BIGI (TAKEO KIKUCHI)
  • NICOLE (MITSUHIRO MATSUDA)
  • COMME des GARÇONS(REI KAWAKUBO) 
  • Y’s (YOHJI YAMAMOTO) 
  • JUNKO KOSHINO (JUNKO KOSHINO) 
  • ISSEY MIYAKE (ISSEY MIYAKE) 

 

などなど、様々なブランドの商品(主に服飾品)が社会的ブームを起こしていました。

 

そのような時代背景をバックに、M先輩は部活の始まる前に我ら後輩を捕まえては、

 

『お前はどこのブランドが好きや、俺は○○のジャケットが好きや』っと

 

ブランド通だと自慢したいのか、自分たち後輩にいつもそのような

 

話をしていました。

 

 

同世代の皆さんは知っておられる事と思いますが、当時の野球少年は何故か

 

みんな【坊主頭】がトレードマークでした。

 

今もこの伝統が続いているのが不思議ですが…( ´∀` )

 

坊主刈りもバラエティーに富んでおり、

 

三分刈り(5㎜)、五分刈り(9㎜)なかには、1㎜の坊主頭の

 

後輩の自分たちに、DCブランドはどこが好きと聞かれても…

 

うーん当然答えられません。

 

 

そのなかで、我ら同級生の谷山くんはM先輩の対して、

 

こう言い返答したのを覚えています。

 

『自分はカモフラが好きなブランドです!!』・・・・

 

沈黙が続いた後に、周りにいる諸先輩方や同級生は大爆笑でした。、

 

その場は、一気に笑いの渦に包まれたのでした。

 

 

やってくれました、言ってくれました、谷山くん。

 

カモフラ(カモフラージュ、迷彩柄)とはあくまで柄の名称であり、

 

DCブランド名ではない事は、誰もが認識していました。

 

当の本人はカモフラがブランド名だと思っていたらしく、

 

皆の前で言い放った後に周りの状況を見て、顔を赤面して照れ笑いしていました。

 

 

谷山君がそう言い放った後にM先輩は『谷山、お前、それは柄の種類やんけっ』

 

と即座にツッコミを入れたのは言うまでもありません。

 

1㎜の青白く光った坊主頭がひときわ目立つ谷山君に、DCブランド事なんか聞いても

 

それこそ1㎜も知らないで当然です。

 

私自身も当時は全くDCブランドの事なんか興味も知識なく、M先輩のブランド話を

 

愛想笑いをして『いつまで続くねんっ、はよ終わらんかな~』と苦痛に耐えながら

 

部活に励んでいたのを思い出します。

 

 

その中での出来事だったので、谷山君の言動は勇気のいる一言だったと思います。

 

その時の度胸と愛らしさは、彼のその後の愛されキャラを確立させる

 

出来事だったのでした。

 

 

その後もM先輩の後輩いじりは続き、『ねるとん紅鯨団』というフジテレビ

 

で放映されていたテレビ番組にかなり影響されていて、

 

その番組の中で司会をしてた『とんねるず』の口調を真似て、

 

『シースーをザギンに食べに行きたいよな』→寿司を銀座に食べに行く

 

みたいな感じで、後輩に話しかけては日々、自分たちはいじられてました。

 

同級生を含めみんな思っていたはずです。

 

『イタイ先輩や。』

 

だれもM先輩を前にして決して口には出来ませんでしたけど…

 

M先輩の話はここまでです。

 

その節はいろいろ教えてくださってありがとうございました。<(_ _)>

 

いまも変わらず、お元気でトレンドの最先端を突っ走っておられますか?

 

 

当時はバブル期で、『とんねるず』がどのテレビ番組でも業界用語を

 

連呼していたのが思い出されます。

 

 

今となっては『死語』となってますが、(たまに使っている奴もいますが…笑)

 

↓その一例を下にあげさせてもらいます。↓

 

 ●シータク(タクシー)

 

 ●ちゃんねー(お姉ちゃん)

 

 ●パイオツカイデー(おっぱいでかいねー)

 

 ●てっぺん(12時を過ぎること)

 

 ●ケツカッチン(次の予定まで時間が無い事)

 

 ●ガヤ(その他大勢)

 

 ●ピーカン(晴天)

 

 ●ツェーマン(1万)

 

 ●ゲーセン(5千円) etc

 

とまぁ、本当に意味が分からない言葉が世に溢れていた時代でしたね。( ´艸`)

 

今も若者達が話している言葉に耳を傾けると、会話の内容が時折理解できないので、

 

時代が変われど、今も昔も変わらないんだなぁ~とつくづく思います。。

 

 

 

 

中学生時代を振り返ると、部活以外の思い出はさしてありませんが、

 

しいて言うならば、『教室の小窓から見える、女子先輩の姿』が印象に残っています。

 

前述のM先輩(ヤロー)ではなくて、今度は2つ年上の女子先輩の話です。

 

なぜか知らないのですが、私は小学校・中学校の時は年上の女子に結構モテました。

 

今とは違い、小柄で丸坊主の可愛らしいイメージだったのです。

 

小学生の時は、生徒会の役員を一回も落選することなくやっていました。

 

はっきり言って、この頃の生徒会役員を選挙で選ぶのは政策や公約など

 

と選挙演説の時に立候補者は演説していましたが、誰もそんな事には

 

まったく興味がなくはっきり言って、『人気投票』で決まる人選なのです。

 

その選挙を一度も落選することなく、卒業まで都合3回ほど責務を果たしました。

 

よほど女生徒から人気があったのでしょう( ´∀` )

 

そんな感じで、中学校に進学してからも変わらず女子には人気があった

 

と自負しています。

 

まだまだ恋愛経験もなく、女子への関心もままならない中学1年生の時に

 

教室の小窓から見える非常階段から、こちらを見て笑顔で手を振っている

 

上級生の女子先輩を見つけました。

 

最初は訳も分からず周りを見ては誰かの知り合いなのかなっと思っていましたが、

 

どうも、自分に彼女の視線が注がれていて、手を振ってくれていると

 

気づくまでに時間はかかりませんですた。

 

正直、うれしかったです。ドキンッとする気持ちとはこの事なのでしょう。

 

その先輩の名前は今となっては忘れてしまいましたが、授業中や休み時間

 

と時間に関係なく、非常階段から私に笑顔を見せてくれました。

 

授業中に非常階段にいる。んっ?そうです!!ヤンキー先輩だったのです。

 

 

広野中学校は開校からまだあまり年月もたっておらず、校則は大変厳しかった

 

のではなかったと思います。

 

 

その厳しい環境の中で、授業中に教室を抜け出して非常階段で時間を潰す

 

彼女に中学生になって初めてといってよいと思います。『恋心』を持ちました。

 

 

少し長めのスカートに黒のストッキング、まさにその当時の定番ともいえる

 

不良スタイルの彼女が見せる笑顔が容姿とのギャップがあり、

 

当時はまだ使われてはいなかったですが、まさに『ギャップ萌え』でした。。

 

彼女が卒業するまでの1年間は、毎日非常階段が気になって授業内容が

 

まったく頭に入ってこず、教室の小窓を眺める日が続いた記憶が残っています。

 

今となっては淡い思い出です。

 

名前もわからない、何も始まらなかった私の恋心でしたが、

 

はちみつレモンのような、甘酸っぱい中学時代を過ごした良き思い出でした。。

 

♪は~ちみつレモンっ。。♪ってコマーシャルがありましたね( ´艸`)

 

 

 

 

 

 

高校生時代

 

広野中学校を卒業して、高校受験に失敗しながらもなんとか、京都私立東山高等学校(普通科)に進学しました。

 

この高校は『ボンボン学校』と周りから定評があり、それ故に『女子高生』から京都で一番人気の高校でした。

 

当時は、詰襟の学生服からブレザーに変わっていた最中で、この高校は詰襟の学ランだったので更に人気があったのでしょう。

 

 

東山高等学校での思い出として残っていることは、はっきり言って『よく遊んだ』ことしかございません。

 

もともと宇治の田舎で育った人間が、京都市内で育った人間に知り合って、感化されない訳がないですよね笑

 

高校入学後、1年生時のクラスは1年10組、担任の先生は確か『えさ』先生だったと思います。( ´∀` )

 

担任の先生の名前すら憶えていない自分が恥ずかしいです( ノД`)シクシク…

 

高校に入学してまず、クラブ活動を考えるところなのでしょうが、

 

私はクラブ活動をすることより、大学受験を目指して勉学に励むことを熱望していたので、←真実です。

 

クラブ活動を3年間励むという選択肢はなく、帰宅部に属していました。

 

この帰宅部になったことが、今後の高校生活での大きな過ちだったと痛感しています。

 

大学受験を目指して勉学に励む為に、あえて部活動をしなかったと書きましたが

 

高校を受験した時、進学コース(特進コース)を受験→不合格で、普通科にかろうじて合格したという

 

苦い思い出があるので、せめて大学は名の通ったところへ行きたいと最初の頃は考えていました。…最初の頃はデス。

 

 

はじめてのクラス編成で、当然みんなが他校から進学しているので誰も知らない状況でした。

 

緊張で静まったクラスの中で、一人のかわいい顔をした生徒が緊張しているクラスメイト全員にこう言いました。

 

『みんな彼女いるけ?』……??????????

 

知らない者同士、誰もが周りを警戒している中で、彼はクラス全員にむけてこう言い放ったのです!

 

ちょっと笑いも起こっている中で、彼はさらに『彼女欲しいよなー』ともう一言。

 

クラスの中で張りつめていた緊張の糸が切れました。そして、誰もが彼に視線を向けていました。

 

彼の名はK嶋君、お家がお寺で住職の息子、さすがです。この張りつめた空気を一変してくれました。

 

彼とは1年生の時しか一緒のクラスではなかったのですが、そのあとの卒業するまで彼の周りはいつも

 

人が群がって、常に人気者でお調子者だったのを思い出されます。

 

 

~女子高編~

 

高校卒業するまでの3年間は電車で通学する毎日でした。

 

毎朝、近鉄大久保駅から丹波橋経由で京阪三条駅まで行き、京阪三条から京津線に乗り換えて蹴上駅で下車していました。

 

東山高等学校は、京阪電鉄京津線の蹴上駅から徒歩10分のところにありました。(いまは地下鉄になってますね)

 

当時は地下鉄ではなくて、路面電車が京阪三条駅から浜大津駅にむけて運行していましたね。

 

高校の通学途中には南禅寺というお寺があり、芸能人が撮影の為によく訪れていましたし、外国人観光客も

 

たくさん訪れるような場所の一角に東山高校がありました。

 

この通学で使っていた京津線がそれはそれは凄かったのを憶えています。

 

何が凄かったのかと言いますと、通学時は常にぎゅうぎゅう詰めで、息もできないくらいの状況でした。

 

しかも、車内のそのほとんどが学生でした。

 

東山高校の周りには女子高が多数あり、京津線での通学時は日々おしくらまんじゅう状態でした。

 

主に、華頂女子高校、家政学園高等学校、ノートルダム女学院などの女子生徒がこの電車を利用してました。

 

思春期真っ盛りの我ら同士は、この通勤時間を楽しみに学校に通っている同士もいた始末です。(笑)

 

そのような、状態でしたので女子とお知り合いになる機会は大変多く、ましてやボンボン学校という

 

背景も相重なり、入学してから続々と周りでカップルが成立していったのを思い出します。

 

当時は、『合コン』と呼ばれる男女が互いの高校から人選して、ご飯食べの場で紹介すると

 

いう行事ごとがほぼ毎週行われていました。

 

この、合コンの結果入学してから3か月くらいで、彼女ができた同士も少なくありませんでした。

 

『さすが、東山高校』とその時は高校の知名度がこれほどまでに凄いのかと、唯々びっくりしました。

 

それまで、中学生時代もまともに彼女ができた事がなかった環境でしたので、

 

ほぼ、毎週開催される『合コン』に参加していたのは、至極当然の事でした。

 

 

 

その当時の、男子校から人気のあった女子高のランキングは以下のとおりです。

 

 

第五位 家政学園高等学校(今は京都文教高等学校)

 

第四位 精華学園高等学校

 

第三位 京都女子高等学校

 

第二位 華頂女子高等学校

 

そして、当時の女子高人気ランキングで堂々の第一位をてにしたのは………

 

『平安女学院高等学校』です!!

 

この平安女子学院高等学校→略して『平女』の女子達はそれはそれは当時、垢ぬけていましたよ。

 

今でも強烈に憶えているのが、スカート丈の短さと、ルーズソックス(初期)です。

 

当時は、ソバージュと呼ばれるヘアースタイルも流行っており、平女の娘はみなヤキソバヘアーで通学してましたね(笑)。

 

第二位の華頂女子校の女子達も短めのスカート丈に、ソバージュ頭でいつも香水の匂いをさせていました。

 

私も幾度となく平女、華頂の女の子を紹介してもらいました。一度もお付き合いすることはなかったですが( ノД`)シクシク…

 

紹介してもらった時点で時すでに遅く、可愛らしい女子達はほぼ皆無に等しかったのを憶えています。

 

女子高の話はキリがないので、このへんで終わらせてもらいます。青春時代の1ページを飾る良い思い出でした。

 

 

 

~バンド編(その1)~

 

東山高校一年生の時に、はじめて憧れでもあった『バンド活動』を経験しました。

 

当時は、テレビ番組でも三宅裕司のいかすバンド天国という番組が人気があり、次々と

 

新しいバンドがメジャーデビューしていった時代背景がありました。

 

たま・フライングキッズ・ジッタリンジン・カブキロックスなど、様々なジャンルのバンド

 

がメディアに出演していましたね(^_-)-☆

 

そのような時代背景で私もバンド活動なるものをやっておりました。

 

 

ここで当時のメンバー紹介をしたいと思います

 

【ギター】(リード)長谷川君

 

歯医者の息子、ボンボン育ちでギターテクニックは相当なものでした。

 

KinKi Kidsの堂本剛似の男前でした。

 

使っていたギターも確か『キラー』とかいう何十万円もする高価なものを愛用してたと思います。

 

彼が当時付き合っていた彼女が不思議ちゃんだったのはいまだに憶えています。

 

 

【ベース】三島君

 

いつも陽気な平和主義者の彼は、幅広い人脈の持ち主で顔が広く

 

ベースは初心者レベルだが、ノリと気合でバンドのムードメーカー的存在でした。

 

ちびまる子ちゃんにでてくる、永沢くん似の愛嬌がある人物でしたね。

 

 

【ドラム】石戸君

 

彼は、当時とんがった奴でした。世間でいうとこの『不良』でしたね。

 

授業中はいつもお眠りタイムで、放課後になると元気になってドラムを叩く、

 

典型的なバンドマンって感じのヤンキーでした。

 

よく担任の先生に呼び出されて、反抗していたのを思い出されます。

 

 

【ヴォーカル】塩田君

 

名前がうろ覚えですが、たしか塩田君だったと思います。

 

加勢大周似の男前の上に、学業も学年で上位の彼は、はっきり言って

 

ビジュアル(顔面)の良さのみでヴォーカルに抜擢されました。

 

学園祭当日にピンクに髪を染めて、シャウトしていたのが懐かしいです。

 

 

私はというと【サブギター】というポジションで、ギターはまったくの初心者であったので、

 

当然のポジショニングでした。

 

この5人で東山高校の学園祭でバンドをやろうぜという流れになりました。(^_-)-☆

 

まず、バンドはカタチからという事で、バンド名を考えることからスタートしました。

 

いろいろと考えた末に、長谷川君が考えた『レボリューション』とバンド名に決まりました。

 

意味は…『革命』です。

 

ベタベタです。

 

高校1年生の反抗期5人組が考えそうなネーミングです(笑)

 

そして、コピーするバンドは

 

当時、天才・たけしの元気が出るテレビ!!でデビューしたてのエックスと

 

長谷川君が好きなバンドだったラウドネスを

 

無謀にもコピーすることになりました。

 

それまで、ヘビーメタル・ハードロック系の音楽を全く聴いていなかったので

 

エックス? ラウドネス? という状態で私はバンドの練習に打ち込みました。

 

他の4人はいざ知らず、まだギターをはじめて数か月の初心者がヘビーメタルのギター

 

をコピーなんかできる訳もございません!

 

学園祭まで、残りの期間、練習時間もない状態で、サブギター担当だからといっても

 

ステージには立たないといけないので、どうしようか悩んだ結果、私が出した答えは

 

『ギターを弾いているふり』をしようと決心したのを憶えています。

 

後にも先にもライブでギターを弾いているふりをしたのはこの一回限りでしたが、

 

今となっては自分の無茶ぶりに感心します。

 

何とか無事に学園祭は、終わりましたが、その後に当然、このバンドに誘われることも

 

その一件からなくなり、短いバンド活動は終わりを告げたのは言うまでもございません。

 

当時のメンバーに一言、この場で謝りたいと思います。

 

ライブで開始一発目の楽曲は正直まったく練習していませんでした。

 

アンプの調子がおかしくなって、ギターの音が出ないとライブ後に皆に言っていましたが

 

あれは嘘です。

 

皆が必死で練習している中で、自分ひとりが弾けない事が恥ずかしかったので

 

あのような行動をしてしまいました。この場を借りて、32年前の事を謝罪いたします。

 

なんちゃってエアギターでライブを乗り切ってしまい本当にご迷惑をおかけしました。<(_ _)>

 

一生忘れることのできない、良き思い出となってます。

 

みんな元気でやってるかな~

 

いろいろな意味で、高校生活は楽しかったですね。

 

もっと、ギターを練習しといたら良かった(^_-)-☆

 

 

社会人(フリーター)時代

 

東山高校をギリギリ留年を免れ卒業後、大学受験を冷やかし程度に受けるも、

 

世間はそんなに甘くはなく、当然のごとく大学受験は失敗に終わった。

 

特にやりたい事もなく、日常をただ何となく過ごして生活を送っていた時に、

 

保育園~中学校まで一緒だった、同級生に地元の大久保で何年かぶりに出会いました。

 

どうも彼は、京都市内の繁華街「木屋町」でカラオケパブで働いているらしく、

 

『お店が忙しいので一緒に働かないか』とバイトに誘われました。

 

今まで、夜のバイトを経験したことがなかったので、好奇心と私自身時間を持て余していたのと

 

当時は、カラオケパブが結構賑わっていたので、『俺もカラオケパブで一緒にバイトしたい!』と同級生に

 

頼みました。

 

この夜のバイト(カラオケパブ)は結局、約2年程で辞めてしまいましたが、本当に色々と勉強させてもらいました。

 

人との繋がり、お店の運営方法、お酒の飲み方等、一般社会では知りえる事の出来ないような驚きばかりでした。

 

 

オーナーとの面接も終わり、いざバイトの初日!!

 

最初に配属されたお店は、木屋町六角にある『ヒューマン』という店舗に配属されました。

 

カラオケパブとは言うものの、結構シックな内装で大人の雰囲気が漂うお店でした。

 

同級生に連れられ、ヒューマンの店長にまずは挨拶をする事になり、『どんな店長なのかな?』

 

と、期待と不安でいっぱいの中、ヒューマンの店長は厨房から現れました。

 

めっちゃヤンキーやんっ~~~!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 

髪型はパンチパーマ短髪でリーゼント風の『喧嘩上等』と相手を威嚇するようないで立ちで

 

細長い眼鏡から覗くするどい眼差し!

 

ヒューマンの店長は紛れもなく、どっからどー見てもヤンキー店長でした。( ノД`)シクシク…

 

同級生の坂内君に店長を紹介され、恐るおそる挨拶を済ませた後に、『まずは何から始めたらよいですか?』

 

と私がヤンキー店長に聞くと、『まぁカウンターに座っといて』と風貌からは想像できないほど優しい口調で

 

私に答えてくれました。細眼鏡から覗く、獲物を狙うかのごとく鋭い眼差しは続いていましたが…(; ・`д・´)

 

この店長は皆から『ヤンキーさん』と呼ばれ(そのままやんっ)、昼間は板前の仕事、夜はパブで

 

働く勤労青年だったというのはその後に人づてに教えてもらいました。

 

バイト初日はこのヤンキーさんがご馳走してくれた、『ステーキ』をカウンターでいただいた事しか

 

憶えていません。何故ステーキ!? 正直この風貌で料理ができる、しかも美味しい!!

 

何がなんだか分からないまま、バイトの初日は無事に終えることができました。

 

ヤンキーさん、元気にされてますか?あの時のステーキの味はあなたにビビッていて

 

はっきりと憶えていませんが、おいしかった事だけは憶えていますよ!!

 

ただ、あなたの鋭い眼差しは今もしっかりと脳裏に焼き付いていますよ(笑)

 

 

もともと、まったくと言って良いほどお酒が飲めない(下戸)な私でしたが、

 

カラオケパブで働くのに、飲酒、接客は必要不可欠な営業の必須事項でした。

 

お客様から毎回、必ずといってよいほど『まぁ一杯飲みーや!!』と言われグラスにお酒を注がれるからです。

 

当然、仕事なので断れるはずもなく、下戸な私は毎日酔っ払い、お店の閉店前は必ず潰されていました。

 

毎日、働きに行っていたというよりは、お客さまに酔い潰されにいっていたという仕事内容でした。

 

ヤンキー店長はというと、仕事中はほぼ厨房にこもっていました。( ´∀` )

 

よほど、厨房が落ちつける場所だったのでしょう。特に目立った接客をするわけでもなく、たまにお客様から

 

『店長~一杯飲み~な!』と誘われると、ひょっこり顔を出すくらいの頻度で接客をしていました。

 

まぁ今から思うと、その営業スタイルで良かったのではないでしょうか。

 

一見のお客様が、店に来られてこのヤンキー店長を見た瞬間にまず逃げ帰ってしまうのではと

 

想像されましたから…

 

『ヒューマン』での研修?期間も終わり、系列店で三条下る先斗町通近くの『アプリコット』という

 

店舗に配属されました。このお店もカラオケパブでした。

 

『お前のノリはヒューマンよりアプリコット向きや!』とその時、系列店の

 

統括店長にまで昇りつめた、坂内くんから言われました。

 

彼が言うには、『大人の雰囲気漂うお店より、騒がしい若者が集まるお店の方がお前向きや』という理由

 

だったと、当時はそう理解しました。

 

そりゃそうでしょう!毎日働くたびに、お客さんに潰され、テンションアゲアゲで、カラオケを歌わされて、

 

毎日しらふで帰った時なんかほとんどなかったですし。。。

 

バイトを始めて2店舗目に配属された『アプリコット』

 

このお店での経験が、この先の人生を大きく変える出来事となりました。

 

 

『アプリコット』

 

お店の名前は果物、アンズという意味だが何故この名前に

 

なったかは確かな情報は誰も知りません。

 

このお店自体は15名程で一杯になるほどのキャパ(箱)で、比較的若年層が好む

 

お店の雰囲気となっていました。

 

配属初日にまずは恒例の店長挨拶っという事で、前述の『ヤンキーさん』の件もあり

 

どんな店長なのかと、またまた不安と期待に胸を膨らませてカウンターで待機していると、

 

『吉本です!!』と爽やかな笑顔と、甘いマスクの吉本(カズ)店長が声をかけてくれました。

 

『よかった~強面の店長じゃなくて』第一印象はそのような感想と、安心感がこみ上げました。

 

少しの間、『ヒューマン』で接客を経験した事もあり、『アプリコット』での仕事は慣れたものです。

 

この吉本(カズ)店長に会うことを目的とした女性のお客さんの多い事×2!!

 

毎日、お店は若い女性客で一杯になっていましたね。

 

吉本店長=カズさんと呼ばせてもらいます。

 

このカズさんは私と同じで、お酒が受け付けない(下戸)体質で、お客様からお酒の勧めがあると

 

まぁ、こちらによく振られました。そして、二人して泥酔して営業にならなかった日も度々ありましたね( ´∀` )

 

カウンターにはカズさん目当ての女性常連さんがいつも待機し、ホールにはこれまたカズさん目当てのお客さん

 

が陣取り、それはそれは女性客の間で火花が散っていたのを思い出されます。

 

当のカズさん本人はというと、お酒に弱いのですぐに酔っ払い、そのうちマイク片手に自分でカラオケを歌う始末!(^^♪

 

知らないうちに、カズさんのお客様ほったらかしでショウタイムが始まるというような、今ではこんなバイトは存在しないで

 

あろうかと思う、営業スタイルでした。

 

私はというと、主にカウンター接客と厨房で料理担当でした。

 

カウンターには、同世代の常連の三人組→式部くん、堀くん、橋本くんが良くお店に来ては、色々な話をして

 

盛り上がりました。私自身もこの三人同級生とあって良く話に参加していました。

 

とりあえず、この三人組は歌が上手くて、カラオケを歌いだすとざわついていた店内が『シーン』となる

 

くらいに、彼らの歌声にお客さんも私も聞き惚れていましたね。

 

お店の中には彼らの歌声を聞きに来るお客さんもいる始末でしたからね(^_-)-☆

 

大体、このアプリコットでカウンターに座る常連のお客様は皆さん歌が以上に上手かったです。

 

少し年上のこれまた三人組の→堀田さん、小田さん、西さんも例外ではなく、カウンターにいつも横並びに陣取り

 

自慢のカラオケを歌い、皆の注目を集めていました。

 

小田さんの和田アキ子は強烈な歌声出したね!!

 

バンドでヴォーカルをしていただけの事はあって、小田さんが歌うと

 

完全にお店がライブハウス化してましたもんね(笑)

 

 

そのような中で、良いお客さんもいれば、やんちゃなお客さんもいっぱい来店されました。

 

〇〇大学の体育会系部活の打上げ、コンパ等のイベント時は本当にひどかったですね!!(笑)

 

あえて、ここで文章に起こすのは控えさせてもらいます。(; ・`д・´)

 

 

アプリコットでの仕事にもだいぶ慣れ始めたころ、カズ店長が突然『おれ仕事辞めるわ』と話しかけてきました。

 

『将来の事を見据えて、人生を歩んでいく』という、彼の強い思いは変わるものではなく6か月間ほど一緒に

 

働きましたが、そのあとお店を去って行かれました。

 

私はカズさんが去った『アプリコット』の店長として、それから約1年程仕事を続けました。

 

その時のアプリコットの店員は私の高校時代からのツレでもあり、

 

悪友の『山内』と『上坂』で毎日、店を切り盛りしました。

 

この二人は私と違い、この時はまっとうな大学生として働いていました。

 

三人でお店を任されて、働いていた時が人生の中で最も楽しかった時間だったと、今思えば充実感が日々感じられました。

 

 

カズさんがお店を去ってからも、週末ともなると相変わらずお客さんはいっぱい来店されました。

 

当然、女性のお客様も多数来られて、その中でその後に人生を共にする女性も出現しました。

 

彼女の第一印象はというとまず、当時の流行り言葉であった『ぶっ飛び~』というのが

 

〇すっぽあてはまるような女性でした。

 

とりあえず、お店に来ては店員にお酒を飲ませて、自分のストレスを発散するというような

 

超破天荒な性悪性格で、正直その当時は『イタイ』お客さんリストNo1でした。

 

趣味はパチンコ、お酒は浴びるほどに飲む、常に男性陣からチヤホヤされ続けているせいか、

 

男を見下しているかのような彼女の態度が、本当に来客されるたびに嫌だった事を思い出します。

 

『飲む・打つ・買う』と男だったら甲斐性がないと出来ない3点セットを、彼女は女性ながらにして

 

やってのける、まさにそんな破天荒な女性でした。

 

私と山内、上坂はこの破天荒な女性が来店されるたびに、『あんな女性を嫁さんにしたら人生大変やんな!』

 

といつも笑いながら陰ながら話していました。

 

私も彼らの意見と一緒で、この娘は将来、『この調子やと絶対に結婚できんやろな』と見下していました。

 

 

 

・・・・人生はなにが起こるかは誰もわかりません!!

 

 

この破天荒な彼女とは地元も近くだったので、何故か、友達→彼女とステップアップしていき

 

その後、めでたくゴールインしていくのでした。( *´艸`)

 

 

 

最後に、約2年程でしたが、夜の仕事は本当に色々な意味で大変でしたし、人間関係の難しさも勉強させてもらいました。

 

良き思い出です。

 

 

 

 

 

 

社会人時代(その後)

 

まっとうな会社に就職が決まったのは24歳の時でした。

 

その時はすでに奥さんのお腹には子供が授かっており、会社員としてまともな人生を送らないといけない立場

 

でしたので、職業安定所からの紹介で地元の建設業会社に就職して、完全に勤め人に転身しました。

 

その建設会社の社長には当時は本当にお世話になりました。

 

どうなさっておられるのでしょうか。今でもお元気になさってますでしょうか。

 

 

就職してから、数年後に見事にこの会社は倒産してしまいましたが、この社長の恩と男気は一生忘れません。

 

その後は建設業界を長く勤めて、ブランド品の買取店→某中古車屋さんを経て、独立して現在に至ります。

 

挫折や、失敗ばかりの人生の中で培ってきた教訓を、中古車屋さんというフィールドで活躍できれば

 

と考えております。

 

 

合同会社CurioClubという会社で皆様に感謝していただけるような会社つくりを目標に、頑張っていきたいと思います。

 

今後も、中古車の情報・魅力などブログを通じて楽しく末永くお伝え出来たらなと思います。

 

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